事長室にて。


 

「はぁーミス研っスか。そりゃあ面倒なトコに気にいられましたね。有名っスよ、ストーカー紛いな集団のっショ?」

 その、垢抜けない声に私は落胆し、海月はなるほど、と頷いた。
 あの後、午後はあまり好きではない講義だったことも幸いし、私と海月は大胆にエスケープした。別に、今日から始まったわけでもない。ので、さしたる感慨もない。逃げたその足で来たのは理事長室。

「んで、理事長代理、ミス研って基本的にどんなコト仕掛けてくるの?」

「その時にならないとわかんないっスよ。それに理事長代理じゃなくってただの孫っス。お小遣あげるって言われて、座ってるだけなんスから」

 理事長代理、ではなく理事長の孫、芙蓉順奈は拗ねたようにそっぽを向いた。私と海月と同じく、順奈は今春一年生になったばかりである。ただし、中学の。
 犬に例えるならポメラニアン、マルチーズ、チワワなど、小型で愛嬌のある犬。
 実に可愛い(本人は全否定)少年だ。

「んー、ミス研は偏差値がすごい高いんスよ。あらかたのOBは有名な医師になってるっス。入ってるメンバーもテスト上位者っスね」

「…なるほど」

 海月の呟きに順奈はちょこん、と首を傾げた。おもわず私は抱きしめたい衝動にかられる。ショタコンでも何でもないのだが、可愛いものが私は好きだ。特に赤ちゃんとか。

「どうしてっスか。それとひかりさんが勧誘されてるのって…あ」

 もしかして…との言葉の続きは私が受け継いだ。

「海月は次席でココに入ってきたんだもん」

 国立大学は普通一般に難しい。医学部ならなおさらだ。

「へぇ、じゃあ渚さんはどうなんスか?」

「受かったのは奇跡だって、担任と学年主任が泣いてた」

「へぇ…」

 順奈は呆れとも感心とも取れるため息を漏らした。努力で入れる人が限られる中で、奇跡で入ってしまった人はもっとすごいとでも考えているのだろう。
 否定はしない。
 それが私のすごい所であり、困った所でもあるのだろうから。表裏一体、光と影。両刃の剣というか。

「ん、でも偏差値が高い奴らの集まりとはわかったけど、退学までの権限はないハズじゃない」

 実家の権力や、大学間との金銭の汚い取引にて行われることも実際ありそうな点だ。しかしこの学園の理事長、芙蓉順一郎が存命な限りありえないだろう。彼の方は不正を何より誰より嫌う公明正大な人物。私が信頼と尊敬をするに値する、数少ない大人と言える人がそんなことを許すはずがない。
 私の言葉に「ごもっともっス」と呟いた順奈は、外見に似つかわしくない妙に古びた、クセのある笑みを浮かべた。

「たぶん脅しっスよ。僕と知り合いじゃない人なら、騙されてたかもしれないっショ。…つーわけでひかりさん行かないでいいっス。話は祖父につけときますよ?」

「だってよ、海月」

 それまで黙って目をつぶり、寝ていたような海月だったが、軽く私がわかるほどの動きで横に首を振った。

「…行かないでもいいなら、行ってもいいってことだろ?」

 私は、一瞬だけ海月の瞳が楽しそうに揺れたのを見逃さなかった。




「まあ、見学がてら行ってみる」

「そ、監禁されないようにね」

 海月の予想通りの言葉に、私はそう言って理事長室の前で別れた。
 ぞわり、ぞわぞわ。
 嫌な予感がひっそりと首の根本らへんを撫でたような気がしたが、私は故意に無視をした。
 海月に付いていかなかったのは、金曜日には大切なケーキ屋のバイトが入っていたからだ。
 興味はそそられるが、時給が高いバイトは捨てられない。ごめん海月、深夜になっても帰ってなかったら順奈に電話でもするからさ。そこまで考えて、私は思考を切り替えた。
 また、思い出したのはバイトが終了した後のことだった。


 深夜、もうちょっとで日付が変わる頃。

「お疲れ様でした!」

「おう、ご苦労さん!」

 薄手のパーカーに腕を通しながら私は急いで店を出た。
 明日の準備を手伝っていたら、思った以上に遅くなってしまったのだ。
 どうしよう、極悪非道な教授の出した多大な課題のレポート提出期限は月曜だというのに。
 というのは建前で、急いでいたのは夜中に出歩いていると補導されかねないからだった。
 日本人女性の平均から見てしても小柄な体格(海月は小人と呼ぶ)と化粧っ気のない顔(海月は童顔なだけだと言う)のせいか、夜間に出歩くとよく警察官や警備員に呼び止められてしまう。
 職務質問ではない。聞かれるのは「お嬢ちゃん、保護者は?」である。

「あっついな…」

 梅雨に入ったばかりの空気は湿っていて、皮膚にベトついて離れようとしない。
 ケーキ屋からアパートまでは歩いて10分ほどの距離だ。
 郊外に建っている医大の近くに、私の住んでいるアパートはある。
 そのアパートは、祝・築50周年を更新したからか全3棟24部屋のうち、7部屋しか埋まっていない。
 風呂とトイレは個々にあるし、日当たりはいいし、駅にも近いし、何よりどれより敷金礼金無しで月2万というのは安すぎだ。
 まあ、なにやら出るとの噂はありありだが、いまだ見たことはないので出ていこうとは思わないけど。
 遠目がちにだが、古びたアパートが目で捕らえられたことに軽く安堵する。

「とりあえずは会わなかったっと…」

 私の部屋は3棟目の2階、4部屋ある中で右から2番目。
 ちなみにその左側の部屋は海月だ。
 明かりが付いていないので寝ているのか、それとも。

「すみません」

「あわっ」

 完全に自分の世界に浸っていた私は、背後に立っている人影に気付かなかったのだ。
 驚いて反転しながらも間合いを取って身構える。
 暗がりでよく見えないが、今さっきの声と体格で20代ほどの男性だというのはわかった。
 これでも小学生の頃から剣道をしているのだ。段もそれなりに高いって…馬鹿か私は。竹刀も木刀も持ってないのに、どうやって戦うというのだろうか。
 と、無言で一人劇を繰り広げていたら静かな笑いが相手から聞こえてきた。

「すいません、不作法にも笑ってしまって。夜分に申し訳ありませんが花園渚さんですよね?」

「は、はあ」

 やけに腰が低い人だ。
 その人は、私に黒い手帳を見せてこう言った。

「警察です」

 

 


 

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