五月幟てを飾る


 

 女は損だなあ、とはためくそれを見上げて思うのだ。



「今年のゴールデンウィークはどうするのー?」

 やたらと書き込むスピードが速い上、達筆というよりは発掘現場でしかお目にかかれないような斜めに歪んだ白い文字を、どうにか想像力を最大限に駆使しながらノートに書き写していく。

「ねえ」

 要注意なら赤で書くな。黄色で書くな。さらに見にくい。窓から差し込む日光が反射して、もはや嫌がらせにしか思えない。穴埋め問題のようなノートだが、八割はこれであっている。たぶん。どうだろう。だんだん自信がなくなってきた。

「ねえって」

 どうしてもわからなかった場合は空けておく。帰ってから参考書なり、問題集を見てそれらしいので埋めよう。もしや教師はこれを狙っているのでないだろうか。自主性を促すためとかで。
 問題はこれが古文の授業ではなく数学の授業だということである。これをテスト前に見直したとして、はたして理解できるのだろうか。間違っていたら無意味である。

「ねえって!」

 さっきから授業中にしては声が大きい私語に小さくため息をつく。人の迷惑になるってわからないのかな。休み時間にでも好きなだけ騒げばいいのに。ああそうか、それ以上に有り余る馬鹿力が自然と漏れでているのか。夜中に寝れないくらいの波のある虫歯の痛みに苛まれろ。

「無視してんじゃねーよブス」

 コツン、となにかが後頭部に当たった。そして時を置かずにノートの横に転がるのは使いかけの消しゴム。飛んできた方向へ首を少しだけ曲げて見る。真後ろと、そのまた後ろの席。
 じろりと見やるが、対する二人は悪びれた様子もなくにやにやと笑いながら手を振る。

「あ、やっとこっち見たー」

三芳みよしサンったら全然気づかないからサ」

 実力行使に出ちゃった。
 そう言う彼女たちの手元のノートはきれいに真っ白。授業はあと五分もないのに書き写す気はないようだ。しかしこういう輩が後から「ノート貸してヨ」と言ってくるのである。しかも提出の直前に。その結果、自分が出しそびれると。
 私はそんな相手には一度として貸したことはないが。

「来週からのゴールデンウィークどうする?」

「あのね、三芳サン
岸辺きしべクンと仲がいいって聞いたんだけどー」

 普段からあまり会話という会話をしない彼女たちの問いかけに、声には出さずに「は?」と口の形を変えた。それを見て一瞬だけ眉間にシワが寄らせたが、また彼女たちは口を開いた。

「隣のクラスの子に聞いたんだ。三芳サンの家ってお菓子屋さんなんでしょ? いいなあ、日頃からお菓子食べ放題じゃん」

「三芳サンのことだし家の手伝いくらいしてるよね! お菓子づくりとか得意そうな顔してるし!」

 どんな顔だ。
 そこまで聞いて、春の日差しでふやけた頭でもこの二人がなにを言いたいのかなんとなくだが想像がついた。中学時代にも同じようなことがあったのである。
 しかし、中学時代の子は放課後に呼び出してきた。あっちはまだ避けようがあったが、こっちは逃げ場を無くしての行動である。勉強はしないのによくこういう悪知恵が思いつくもんだ。その前にすることがあるだろうに。
 長い爪先の指で鳥のくちばしのように尖らした口元をつついて、彼女たちはそう小さくもない声で続けた。

「岸辺クンの家もお菓子屋さんだから? 私たちも気軽に話しかけるきっかけがほしいのに、三芳サンだけズルいよね。私も仲よくしたいなーせっかくの長い休みだし遊びに誘いたいの」

「ね、おねがい。岸辺クン呼び出してよ。できるだけはやくね!」

 言葉の最後は昼を告げる鐘の音と重なって潰れてしまったが、ろくなものではないとだけはわかった。出していた筆記用具をしまうと同時に数学教師もこちらに向きなおる。

「気をつけて帰れよー」

 この教師の授業は時間きっちりに終わるのだけは利点だと思う。日直の頼りない「起立、礼、着席」の声に従って立ち上がり、頭を下げて座ってまたすぐに立ち上がった。今日の授業はこれまで。帰りのHRもなし。
 手早くノートや教科書を机の横にぶら下がる鞄に詰めこんで、くるりとドライヤーをあてすぎて逆に痛んでそうな髪の二人へと振り返った。ついでに消しゴムも投げて返してやる。机から跳ねて落ちたがもう知るか。

「馬鹿は休み休み馬鹿なこと言ってくれる?」

 目を丸くして固まった彼女たちの姿を背にそのまま教室を後にした。断られるなんて思いもしなかったに違いない。どんな思考回路をしているんだろうか。
 ああ、そうか。“休み休み”だから授業中に言ってきたんだ。

 本当に馬鹿らしい。






 からりと晴れた空の下、大きな魚がひらひらと泳ぐ。まるで目には見えない水の中をすいすいと進むように。
 しかしあの魚はその場から逃げることは叶わない。ひとつの長い竿から繋がれた大きな大きな魚は風を受けて形を変えるだけ。
 昔はあの魚が欲しかったものだ。いや、いつか自分の魚も買ってもらえるのだと思っていた。家の庭から伸びた、そのそびえ立つ先に鮮やかにはためく三匹の魚を物欲しそうに見ては祖父の袖をひいてはそう口にした。
 が、かわりに与えられたのは顔がこわい人形だった。春先に飾る、物言わぬ人形。すこしの間にしか押し入れから顔を出さないくせに妙に威圧感のあるそれが苦手で、特に夜はその部屋の前を通るのもいやだった。寝ている間に顔の横に置く、という本人からすれば些細なイタズラを兄がしてからは特に触るのも見るのも鳥肌が立つようになってしまい、あの人形たちは押し入れから出されないまま何年経ったことか。

 ランドセルだって赤よりも本当は黄か黒にしたかった。ままごとよりもジャングルジムで酔うほど回すほうが楽しかった。かわいいシールを集めるよりもどれだけ大きなクワガタを採ってくるかを競うほうが好きだった。ふわふわのフリルやリボンがついたワンピースより洗濯してもすぐに乾くTシャツをよく着ていた。
 だから、女子と遊ぶより、男子と遊んでいることのほうが多かった。それだけだった。いまさらになって、それがおかしいと指摘されたところでどうなるというのか。

「あー腹立つ。お前のせいだ、こんにゃろう」

「言いがかりみたいなのはやめてくれ」

 ひとりごとに返すようになにかが聞こえたが、無視を決め込んで目の前の柔らかな固まりにフォークを突き刺した。
 白い生クリーム。甘さは控えめなのに、ふわふわのチョコレートを練り込んだスフレ生地と同時に口に含めば絶妙な味となって溶けていく。重くはないので次から次へと食べても「もっと!」となるのがなんともいやらしくも手が止まらない。
 付属の紅茶は香りは強くないものの、味を壊さないようにと選ばれたもの。全体で楽しめるというのは嬉しいことである。
 休み前の馬鹿らしい出来事をふとしたことで思い出してしまったのを忘れ、うきうきしながら口に運んでいたら、目の前から冷たい視線が降り注いでいた。そう見られると食べにくいではないか。なんだよ、食べたいなら新しく自分で買えよ。

「普通に頼んできたなら普通に断ったての」

 鼻で「はっ」と笑うくらいはしただろうけれど。
 そう言い返せばまだ食べかけの皿を引かれそうになった。一応は師匠である相手だろうに、なにをしてくれるんだろうか。

「ぎゃあああ!」

「どうしてそう、自分から敵を増やすようなことをするんだ」

 すぐに相手はパッと手を離した。なんなんだよ本当に。
 味方にするにしても、あんなやつはいらないだけだよ。遊んでばかりで結果だけ掠め取ろうとするやつなんて。トンビだって自分から獲物に向かって飛ぶんだぞ。自分から油揚げ取りに行くんだよ。
 皿を取り返して、責めるような口ぶりの相手に「けっ」と笑えばまた皿を引かれた。

「そういうことばっかりするから、後々に損をしたり変な目に合うんだろ」

 変な目とはなんだよ。

 そう聞けば、相手は肩をすくめただけで会話は中断。再び返された皿にまた手を伸ばした。
 まったく、しつけのなってない弟子である。


 表通りからすこし引っ込んだ路地の先にある洋菓子店【toujours_ensemble】はなんとも可愛らしいお店である。
 まず外観が外国の絵本の中から飛び出てきたような作り。三角屋根に覗けば小人が住んでいそうな大きな丸い窓、木目調の丸いドア。開けば、アンティークな小雑貨とそれに寄り添うようにクッキー等のお菓子が出迎える。
 さらにその先に進めば三段のショーケースにぎっしりと並ぶ、見た目も楽しい十種類以上のショートケーキ。しかしそれは開店してすぐの話であり、平日でも夕方には生菓子はひとつ残らずに消えてしまうほどの人気店である。残念ながらテイクアウトのみ。
 出されていないホールケーキは店員に頼めば買えるのだが、数に限りがあるため確実に買いたいならば事前の予約が肝心だ。
 人気の秘訣はなんてたってケーキの美味しさにあるが、それに付随するのはやはり可愛らしさのせいだろう。
 少なくとも、可愛らしい外観や雑貨に惹かれて入ってきた一見の客は、ショーケースの向こう側に幽鬼のように佇む男がいたら回れ右をするはずである。

 二年ほど前、私は口コミで話題になりつつあった【toujours_ensemble】に単身で偵察に来ていた。新しくできたお店がとても美味しいという噂を聞いて訪れたのだが、どうにも店の中はがらんとしており「ガセネタ掴まれたかしら」と中に入ってみれば。
 店の中に、そぐわない影がひとつ。
 まるでそこだけ影をおとしたように暗い。そこだけ照明を確認したが、別に壊れてはいなかった。

「いらっしゃいませ……」

 という声は覇気に欠け、購買力を低下させていく。前髪でよく顔が見えない。やる気があるのかこいつ。
 思わずじろじろと眺めて気がついた。どこかで見たと思ったら。

「2組の岸辺だよね?」

 そう声をかければ、びくりと相手が震えた。怯えすぎだろ。
 クラスの端で大人しく大人しく大人しすぎているつもりなのだろうが、格好がダサすぎるので逆に浮いている人物がそこにいた。なぜ服が上下とも黒なんだ。なぜに顔を隠す。
 お菓子はどれも美味しそうなのに、これでは売れるものも売れない。味で勝負をするのが一番だが、それにしてもその前の食べる前までの工程というのはけして無視できない。買いたいと思わせて、口にまで運ばせなければならないのだ。
 いらっとした。商売をなんだと心得てるんだ。

「あんた、売る気あんの?」

 腰に手をあてて凄む。身長差がけっこうあって辛いがここは我慢する。

「え? そりゃ、あるけど……」

 売れないのは売れないし。
 うつむいてゴニョゴニョと口ごもる岸辺に「明日、覚えとけよ」と捨て台詞を吐いて震え上がらせてからケーキを買うと、私は次の日から日課を増やすことにした。ケーキはとても美味しかったのでさらにやる気が出た。敵は潰しがいがないといけない。

 まず、岸辺を次の日の放課後、事前に頼んでいた美容師のイトコのお兄ちゃんのところに連れていった。

「清潔感があって、なおかつ今風に。特に前髪が邪魔」

「えっちょ」

「売る気あんでしょ? ちょっと黙ってなさいよ」

 多少すったもんだはあったが、最終的にこの言葉を言ったら黙った。
 いつもカットモデルを欲しているお兄ちゃんは珍しい男子相手に喜んだし、ここで本人以外の皆がとあることに気づいた。
 岸辺、それなりに顔立ちが整っていた。
 目は惚れ惚れするくらいきれいなアーモンドの形。鼻はすっとしていて口は小さい。個人的にいうと全体的に細すぎるとは思うが。肉を食え。筋肉をつけろ。力は勝手に無尽蔵には湧かないのだ。

「これ、髪だけじゃなくて服とかもいじると上手くいくかもな」

 私はこれでも十分だと思ったが、美の探求者とはそれだけでは済まなかったようで、お兄ちゃん以外の横から見ていた他の美容師も、あとから「あれもこれも」と手を出しはじめたらしい。
 時間的に家の手伝いをしなければいけないので、前髪を切った時点で私は一抜けした。岸辺がなにか言っていたが、来週に感想は聞こうと思ったのである。
 これが金曜日のこと。
 それから三連休を店の手伝いで潰しての火曜日の朝。
 ざわつく教室に、見知らぬ男がいたわけである。正確には見違えるほどにあか抜けてしまった岸辺は、不機嫌そうな顔でいつものように本を読んでいた。それすら絵になるくらいにお兄ちゃんたちはいい仕事をしていたのである。
 いきなり様相を変えた岸辺にクラスメイトの、特に女子が妙に甘ったるい黄色い声で話しかけても無視を決め込んでいた。
 なんと愛想のない。客商売は美形よりも愛想が第一である。それが上辺だけであろうと。
 後にそのことを叱ればいきなり話しかけられたので、単にびびって反応できなかったと聞かされてすっ転ばされたが。

 それからはとにかく接客のイロハを叩き込んだ。
 特に声量が足りないので、放課後に河川敷まで声出しと体力をつけるために走り込みをはじめた。最初は嫌がってはいたのだが、目に見えて客が増えはじめたのもあってなにも言わなくなった。
 半年もすれば、愛想こそ足らないが顔はいい看板娘ならぬ看板息子の出来上がりである。ふう、いい仕事をしたものだ。


 そもそも洋菓子店【toujours_ensemble】は岸辺の年の離れたお姉さん夫婦のお店で、いつもはこの二人が代わり番こにお店番をしていたのだそうだ。
 ところが開店早々にお姉さんがめでたくも妊娠。予想以上にひどい
悪阻つわりで立ち上がっていることもできなくなった為、そこそこ無茶ぶりされても利く者をと白羽の矢が立ったのが岸辺だったわけである。
 ちょうど、私が岸辺と会ったのはその初日も初日、デビューしたてだった。これがもっと遅くなっていたら店は無くなっていたのではないだろうか。いまになってはわからないが。
 しかし今となっては接客だけではなく、元から手先の器用だった岸辺は簡単なお菓子を作るのもするようになった。これがまた美味しい。
 もう教えることはないと一年前に太鼓判を押したものの岸辺のお姉さんたちに「ついでに試食していかない?」と言われたら寄らずにはいられないのである。
 この男、見かけだけでなくお菓子作りの腕もあげてしまった。これだと前の姿を知らなければ「キャーイッケメーン」と騒ぐ黄色い馬や鹿が出るわけだ。いななきがうるさいので是非とも遠くで邪魔されないようにやってほしい。牧場主はどこにいるのだろうか。

「で、わざわざその愚痴を本人に言いに来たわけ」

「それは思い出したからせっかくだから吐き出しただけ。いまはとにかく家にいたくなくてねー」

 出来のいい弟子は最近ふてぶてしくなってしまった。昔は私の一挙一動に面白いくらいびくついていたのになんたることか。悪癖だとわかっている揚げ足をとるような言葉の刺にも、いつの間にか眉ひとつ動かさないようになってしまった。成長と見るべきか荒んでしまったと嘆くべきか。
 一応、最近話題のお店のケーキを持参したので許してほしいものである。
 しかしゴールデンウィークだというのに突撃マイホームでまさか本当に在宅しているとは思っていなかった。世は仕事休みで金色だろうが逆にある種の稼ぎ時でもある。接客業とは業の深い職業なのだ。
【toujours_ensemble】からほど近いマンションにお姉さん夫婦とではなくご両親と暮らしている岸辺も扱き使う、もとい鍛えられていると思っていたのに。
 入れ違いに岸辺のご両親も出かけてしまって。もしかして一緒に出かける予定だったのではないだろうな。それにしては本当にどたばたと支度をしてあっという間に行ってしまったのでこちらも「すぐに帰るのでお気遣いなく!」と言いづらくなって上がったのだが。

「そういえば、そっちこそ店の手伝いはどうしたんだよ。休みはことごとくそれで潰して誘っても来ないくせに」

「あっはっはーよくぞ聞いてくれた」

 フォークを持った手を握りしめてテーブルを軽く叩いた。思った以上に軽い音が鳴る。もっとゴン、と大きな音をあげるつもりだったのに。怒りというのは一定の容量を越えてしまうと別のものに変わってしまうのかもしれない。

「兄貴が家に帰ってきたんだ」



「アーティストになる!」と家を飛び出た兄。
 後継ぎとして小さい頃から親からのプレッシャーを感じていたからか、兄は家の仕事に嫌気がさしていたらしい。普通の高校に通う私と違い、製菓の科のある高校に通っていた兄は卒業してすぐに行方を眩ませた。
 ただし、その隠しかたが甘いとしか言いようがない。友人に向けてだろうがネットのツールで赤裸々に日常をばらまいていれば当時小学生だった私でも簡単に突きとめることができた。
 友人から友人の家を渡り歩き、仕事を次々に変えて遊びに金を費やしていくさまを。あんな家を継ぎたくない、継ぐ気もないと言いふらす姿を。

 ちょうど思春期であったこともあるだろうが、私は兄がしたことが許せなかった。
 兄は
しごとを中途半端に投げ出して遊びに走ったのだと。誰にも相談せず、その後に残された人間がどうなろうと考えもしない身勝手な生き物に嫌悪しか湧かなかった。

 それからはずっと、自分が家を継ぐのだといままで以上に家の手伝いに重きを置きはじめた。それまでの友達との遊びの時間だって減っていったけれど、構わなかった。
 あんなものと同じになる気はなかったから。


 私は、私が家を守らなくっちゃ。


 それでも親は私に対しては兄ほどには厳しくはしてこなかった。高校だって兄と同じ製菓の高校にしようとしたのに、それよりも担任が推していた進学校へ行くようにとどうしても折れてくれなかった。
「行ける道を増やしなさい」と言うその口ぶりはこうなることを見越していたのではないかと穿ってしまう。所詮、私はスペアで本物がどうやってでも元の鞘に収まると。

 嵐は忙しくなるだろう休みの初日にやってきた。

「兄貴、お腹が大きなお嫁さん連れで来たの。で、玄関で二人して土下座して言うわけさ「夢を追うより未来の子供のために働きたい、金を貯めたい、家を継ぎたい」って」

 笑っちゃうよね。

 いつものように口の端をもちあげて笑えば、岸辺は信じられないものを見たかのように目を丸くしてこちらを見ていた。
 驚くのはまだ早いよ。話は続くのだから。

「正直さ、私はその場で固まっちゃった。感情がさ、いっぺんに出てきてどう言えば、どうすればいいかわからなくて。なに言ってんだこいつ、あんだけ仕事が嫌だって逃げて押しつけて出ていったくせに都合のいい時だけ、こんな時にだけ顔を出して許されると思ってんの。捨てたものがそんな簡単に戻ってくるとでも思ってんの。おじいちゃんの葬式にも知ってて出なかったくせにとかどれから口にすればいいかわからなかった」

 視界がぐるぐると回っているなか、最初に動いたのは母だった。
 冷たい石床に頭を擦り付ける女性を無理やり立たせて服についた埃を払って家に上げた。兄には触れもせず、女性だけ。
 次に動いたのは父だった。重くて固い音が鳴って、気づけば兄が開いたままの玄関から飛んでいった。動けるようになってからは物事は終わってしまっていた。私の出る幕なんてなかった。怒鳴るのも詰るのも手を上げるのも、全部が全部、取り上げられてしまった。

「住むところもないんだって。閉口するよね。だって妊婦がいるのに家が無いってどういうことなの。どうやって生活するつもりだったんだろうね? 笑っちゃうよ。元から家を頼ってきてんじゃん。断られるわけないって同情までひくような真似してさ。ここで断ったらこっちが非人道だもんね?」

 親が納得しているのに、私が文句を言ってどうなるというのだろうか。

 だけど、だけれど、駄目だった。兄と同じ場所にいたら、あれだけ嫌いと言い捨てていた仕事場に、一緒に、いたら。どんどん、押し込めようとした、押し込んでいたどす黒いものが溢れて滲んで隠すことができなくなった。


 私はいままでなにをしていたんだろう。
 なにを、守ろうとしていたんだろうと。


 家から逃げるように出る際にふと、思い出したことがある。

 幼稚園児の頃、大学を出たばかりの若い先生が絵本を片手に語った話と、その後に起こった出来事。十年も前の話だというのに、いまだにその保育士の先生に対して感じた思いは忘れることはできない。
 それは連絡帳に「感情の起伏があまり見られません。のんびりしすぎて自分からはおともだちができないようです」と書かれるその頃の私には珍しいほどの怒りと恨みと悲しみにかられてのこと。

 アリとキリギリス。

 働き者のアリと遊んでばかりのキリギリス。
 夏の間に食べ物をせっせと巣へと運ぶアリを「ばかだなあ、食べるものなら運ばなくてもそこらへんにあるじゃないか」と馬鹿にするキリギリス。
 それから夏が過ぎ、秋を越えて冬になり。雪が降り食べるものがなくなってから夏の間に食べ物を貯めていたアリにわけてもらおうと巣を訪れるが「家族が食べる分しかないから君にはあげることはできない」と断られるのだ。
 怠け者は痛い目を見る。
 真面目な者が得をする。
 私が人生最初にぶち当たったカタルシスであった。

 それなのに。

『そうして心優しいアリさんはキリギリスさんをあたたかい家の中へと入れてあげました。めでたしめでたしー』

 カラフルな紙芝居には、家に入れてアリに料理を振る舞われるキリギリス。フォークのナイフを手に持ち、白のナプキンをつけた笑顔のキリギリスとエプロンを着たアリも笑顔。

『おばあちゃんがよんでくれたのとちがうよ』

 祖母が読んでくれた話はそんなものではない。どうして遊んでばかりでいたキリギリスが馬鹿にしたアリに助けてもらえるの。当然のようにご飯が食べれるの。
 だけれど、先生はそんな私の頬をつねった。痛みと驚きと、大きな声に固まって声が出せなくなる。

『それはおばあちゃんが知ってるお話が古いからよ。みーんな仲良くしなきゃだめでしょ! そんなこという悪い子は』

 おともだちができませんよ!

 それから大泣きした私は、そのあとのことはよく知らない。泣きすぎたからか熱を出して空白の記憶があるほど。しばらく園を休み、その間に若い先生は色んな事情が重なって遠くに移動したらしく、気づいた頃にはいなくなっていた。
 それからの私は周囲のみんなからは人が変わったと言われるほどの現在、純真さを打ち捨てた我の強い性格になった。
 親の望む「女の子らしいを、言うことをよく聞くお行儀のよい子供」ではなく「男の子みたいな、なんでも自分からしてしまう子供」へと。
 誰よりもわがままで、不遜で「自分が一番」のかわいくない人間に。奪われるのではなく奪いにいく側に。

 まあ、そんなことは本当のキリギリスの前には真似事でしかなかったのである。所詮、私はアリでしかない。積み上げてきたものを笑われて、そんなの無駄とばかりに最後だけ、美味しいところだけを掬われていく。

「私さ、ずーっと前から兄のいた場所に立ちたかった。お父さんに「あとはまかせたぞ」っていつか言ってもらいたかった。お母さんに「藍にしてよかった」って選んでほしかった。けどさ、そんなん最初から決まってんじゃんね。生まれたときから」

 私が。
 私が男の子だったら、兄のかわりになれていたのだろうか。
 五月の空にはためくそれを見上げて、思うのだ。

「男に生まれとけばよかったよ」

 言いたいだけ言い捨てて、冷めてしまったお茶に口をつける。美味しいお茶は冷めても美味しいが、渋味が底に溜まってしまうようであまり好きではない。最上を知っているとそれと比べてしまうのだ。
 黙ったまま、私の話を聞いていた岸辺は丸くなっていた目を元に戻して冷ややかにも見える眼差しをこちらに寄越してくる。声も綺麗な低いけどよく通る声だ。私を透して、静かな怒りを向けているのか。愚痴る相手として選んでよかった。

「それで」

 ああよかった。これで可哀相なものを見るような目をされたら、ここにも居られなくなる。

「いまからどうするんだ」

「さあ? 家じゃこっちが触る腫れ物に触るような扱いでさ。無下にはされないけど、それだけ。私が店を継ぐことだけはなくなった、それだけの話だからね、これ」

「店を継ぐ気はない、ということか」

「いまさら。兄がまた「もう嫌だ」と逃げても継ごうとは思えない。こちとら根性悪いんでね」

 さすがに、私はそこまでお人好しではない。仏の顔は三度もない。私の性格からして一度あることも疑わしい。
 しかし、まあ、どうしたものか。女の子らしさを身につけて振る舞うことはできないし、したいとも思わない。
 顔を上げれば、岸辺の背中のはるか向こう。窓枠の外、雲ひとつない空に赤い鯉がひらりと舞うのが見えた。ひとつだけ、竿からはずれているのか本当にその空を泳ぐように。

「……三芳、提案がひとつ」

 その光景に目を奪われていた私は袖を引かれて岸辺へと意識を戻した。

「なに」

「店を継ぐんじゃなくて、店をつくればいいんじゃないか」

「そう簡単に言わないでよ」

 継ぐより一から店をつくるほうが大変に決まってるじゃないか。
 そう言う私に、神妙な顔をしたままの岸辺が何事もないようにこう言った。

「いまなら俺もついてくるけど」

「深夜のテレフォンショッピングみたいなことしないで」

 いまならお得、当店の人気商品がついてくる! というものはよくよく考えたら高くついたり使わなかったりするのだ。

 しかし、与えられたものはとても美味しいもののような気がした。
 積み上げてきたものを奪われる心配はない。選ばれる側から選ぶ側へ。それは、とても甘い甘い罠にみえるのに近づいて覗いてしまいたくなる。
 甘さを知っているからこそ、それを得るための労働は苦ではなくなるのだ。

 さて、この男はどうだろうか。
 一緒にそんなことをしてくれるというのだろうか。
 この、ことあるごとに好意を向けてくる将来も有望な弟子は。

「鯉は滝を登れば竜になるのよね?」

 

 


小説家になろうver

 

NOVELS / INDEX / HOME