そのに住まう名は


 

 どこにでもあるらしい家族連れ向けの店内は、平日のせいか立地のせいか空いている。
 窓際の席に座ってメニューを選んでいた彼女は「そうだ」と顔を上げた。

「君の名前はなんと呼べばいいの?」

 夕闇の橙から、完全に藍へと変わる空に浮かぶ白んだ月は完全な丸から半月の間ほどに欠けている。
 それほどまでに、互いの手が触れてから日が過ぎているのにもかかわらず、彼女はようやくそのことに気づいたようだった。

「ない」

 しかし吐き出す言葉は今だろうが前だろうと同じだ。自分は聞かれたところで返すものがない。

「ない?」

「神へとつける名はない」

 そしていつかは本物へと代わるとされていた人間につける名など、あの家にはない。名は力で、力は呪に変じる。変に意味を持たせるわけにはいけない。
「カタシロさま」などと影から呼ばれていたのは知っているが、彼女に言ったところでわからないだろう。

「不便だね、それ」

「なくてもいままで済んでいた」

 いまだって彼女から「命の恩人さん」やら「君」や「振袖ちゃん」と呼ばれていたから明確な名など必要なかった。それぐらいのシロモノでしかない。
 ただ便宜上、戸籍がないのは不都合なので裏から手を回して二人分の偽造の書類は用意してある。あとは適当に書き込んで世間に紛れて生きていけばいい。
 いままで待っていたのは彼女の意思を確認するためだ。別人の誰かとして生きるのか。それとも――家に帰るのか。
 死亡届の出された彼女があの時のまま、変わらない姿で帰った場合。どうなるのかはわからないがいくつかの予想は出来る。
 受け止められるのか、受け入れられるのかは置いておいて。人の口には戸を立てられない。彼女の存在はこの小さな町ではひとつの騒ぎになる。そしてその小火は誰かの悪意で周りを巻き込む大火事になる可能性があった。

 彼女は選んだ。それだけ。

「君はわたしの名前を知ってたっけ?」

「ノートに名前が書いてあっただろう」

 墓石にも、とは言わない。他にも見る機会はあったのに彼女が気づかなかっただけだ。
 頼むものが決まったようで、彼女がメニューを閉じたのを見て、レジで暇そうにあくびをしていた店員をボタンで呼んだ。自分のメニューはいまから見て決める。

「麺はもうやめなよ。がっつりいきなってがっつり。まだ若いんだからさあ」

「年からいえば僕のが上だ、美月」

 お冷やを持ってきてからずっと手持ち無沙汰だったらしい店員が足早に寄ってくる。

「お待たせいたしました、ご注文は?」

「僕はこれと――美月?」

 いつも通り、なにかの麺類を頼んでから彼女を見れば何故か机に突っ伏していた。目を離すとこれである。突飛な行動はいまに限ったことではない。

「美月、どれにするんだ」

「……中にチーズ入ってるハンバーグ」

 顔に当てているらしい指の隙間から声が漏れる。食欲はあるらしかった。
 店員が去ってからも、しばらく彼女はそのまま固まっている。会話もないので、時間を潰すのに残っていた最後の書類をいくつか取り出して記入していればゆっくりと彼女は顔を上げた。耳が赤い。体調が悪いなら寄り道などせずに帰ればよかった。

「さらっと言うね、君」

「風邪気味なのか?」

「違うよ、わたしはいままで風邪ひいたことないのが自慢なんだからね!」

「じゃあ馬鹿なのか?」

「違うよ! バカは風邪引かな……違うよ!?」

 自分で自分を確認したくせになにを言っているのだろうか、彼女は。馬鹿である。


 書類はあとひとつの項目を残すのみ。別にこれといって希望もないのだが候補もない。しかしこれから一生、使うもの。

「頼みがあるんだ」

 手元から目線を上げて彼女をみれば、紙のナプキンでよくわからないものを量産していた。四足だが、全体的に歪である。

「珍しいね、君が。なに?」

「僕に、名前をつけてくれ」

 名は力で、力は呪に変じる。意味を持たせて、望みをのせたものはそれだけで命が宿る。願いになる。
 自分でつけてもいいが、できるなら誰か――言祝ぎを彼女からほしい。
 人としての名を。

「わたしが? え、わたしでいいのっていうか、いいの?」

「できるなら。明日には出すからそれまでに」

 そこまで言えば、料理が運ばれてきたので話を中断する。
 その後も彼女は眉間に皺を寄せながら、食事をしながらもうんうんと唸っていた。いま言うことではなかったな。
 考え込む彼女の手元にはよくわからない四足の紙のなにか。先に食べ終えたので引き寄せてまじまじと見てみる。
 尾は短く、手足も短く。それでいて頭には長く突き出た二本の角らしきもの。

「……兎?」

「それ以外になにがあるっていうの」

「消去法で残ったのが兎だった」

「ちょ……消去法!?」

 選択肢が他になかった。

「うーん…兎。兎ってさ、月にいるよね。餅つきしてる兎」

「帝釈天の月兎だな」

 去る昔、猿と狐、そして兎の三匹が山で暮らしていた。ある日、その山の中で飢えて倒れていた老人を見つけ、三匹はそれぞれ助けることにした。猿は木に登って果実を採り、狐は川で魚を捕り、それぞれ老人に与えたが、兎だけはどんなに探しても何も渡せるものを見つけられなかった。悩んだ兎はそれでも老人を助けたいと猿と狐に頼み火を焚いてもらい、自ら身を投げて老人へと捧げた。
 実は老人は帝釈天という神で、此度も三匹の行いを試すためにその山に来ており、元の姿に戻った帝釈天はその兎を哀れみ、月に昇らせて皆の手本とした。
 兎は餅をついているとも、不老不死の薬の材料を手杵で打って粉にしているともいわれている。

「月はツキを招く。満月は望月といい、運を招く望月(もちつき)の使者が兎。兎は縁起がいいものとされている」

 この手のは、あの家で学んでいたので知識だけはある。逆に世間のことはよくわからない。彼女よりも疎い部分がある。いまだって、余裕があるのだと騙し騙し生活をしているが、それすらいつか仮面が剥がれ落ちそうでこわい。弱くて脆い。それが自分なのだという自覚がある。

「……決めた」

 彼女は、妙にすっきりとした表情でハンバーグをフォークではなく箸で割った。とろりとそこから湯気が溢れ、黄色いチーズがはみ出る。カロリーが高いと言いながらもよく食べるものである。食が細い自分からだと見てるだけで胃もたれしそうだ。

「なにを」

「君の名前だよ。連想で考えたの。冬だしね、君の手は冷たいしちょうどいいかなーって」

「悪かったな、冷たくて」

 憮然として返せば、彼女は首を横に振った。箸を置いて、その自分よりも温かな手が伸びる。
 望んで伸ばして、届いたもの。離すことなどはもうないだろうという、もの。

「手が冷たい人はね、心が温かい人なんだよ」

 だからね、君の名は。

「雪の兎で雪兎――わたしの兎さん。どうかわたしの側――だめだ! この言い回し超はずかしい!」

「恥ずかしいなら言わなければいいだろう」

「真顔なんだもん! せめて赤くなってよ!」

 言いながらも彼女の顔のほうが赤くなる。見ていて飽きのこない相手だ。くるくると表情が変わるのは、まるで満ちては欠ける月のよう。

「感謝こそすれ、恥じるものでなし」

 君に運が、喜びが訪れますように。
 その横で、側で見ていられますように。

「ありがとう、美月」

 兎はずっと、それだけを。月を求めていたのだから。

 

 


 

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