犬最愛論


 

 うっかりしすぎて、落ちてしまった。


「あ、鍵閉めたっけー」

 またか。
 大学構内の図書館で間延びした声が響く。

「まあいっかー」

 いいのかよ。よくねえよ。危ないだろうが!
 立ち上がって思わず窓際に座っている相手に言った。

「確認してきなさい!」

 それが私と彼の付き合うきっかけである。

 彼はどこか抜けている。
 頭のネジが一本といわずに十本くらいは足りない。
 いままで無事に生きてこれたのは周囲のフォローと自身の結果的にいい方に転ぶ幸運からだろう。
 それでも目覚まし時計は週三は鳴らないし、炊飯器は朝ではなく夕方に炊けているし、財布はやっぱり忘れるし、電車の時間も平日と休日を間違えて覚えているし、キャッチにはよくつかまって長話をしている。これでよく接客のバイトができるものだ。
 出席日数はギリギリだがとりあえず
提出物(レポート)とテストの成績だけはいいのが救いである。

「よく一人暮らしをしようと思いきったね!?」

「親に百回くらいは言われたー」

 あんたが飢え死にするほうが卒業するより早いって。
 さすがは彼の親である。まったく信用はしていない。

「飢え死にするまえに卒業するのが目標なんだー」

「大学は生死を定める場所じゃないよ!?」

 結局はどうにかこうにか生きているわけではある。
 私も放っておけばいいものをついつい手を出してしまうのだ。
 これはそう、小学生の頃に家の裏に住んでいた田中のおじいちゃんが飼っていた犬に対する気持ちに似ている。
 おバカ犬だった。すごいおバカな犬だった。
 元は番犬にするために貰われてきた犬だったのだが警戒心などなんのその。老若男女、誰に対しても懐きじゃれつき甘えて腹をみせる。
 お手、おかわりはできてもその他は状況に応じてわかっているのかいないのか。
 庭は彼のよくわからないどこからか拾ってきたガラクタが宝物として埋められていた。
 それでも好きだった。老衰で亡くなったときに年甲斐もなく声を上げて泣くくらいには。
 なにかで落ち込んだときに会いに行けばちぎれんばかりにしっぽを振って喜ぶあの犬が。

「窓は」

「見たー」

「ガスは」

「止めたー」

「鍵は」

「あれー?」

 外出前に遠足前の子供のように確認させていた。
 十中八九なにか忘れているといういやな的中率を誇る。

「財布の中は」

「あったー」

 大事なものは財布のポケットかなにかに一緒にいれときなさい。財布を無くしたらこわいけど、ポケットにいれて紛失するよりは確率低いはずだから。

 これを言ったのは私だ。
 彼は素直に聞いている。
 もはや彼の動作を予測できるまでになった。大丈夫かな、私。
 こうなることを見越して遅くまであるレイトショーを選んだ。
 いまから行けば間に合う、はず。たぶん。事故にあうようなことにならなければ。

「あ、忘れるとこだった」

 こんどはなにか。
 ドアに鍵をかけた彼は財布から小さな包みを取り出すと私に渡した。

「お誕生日おめでとう」

 忘れるとこだった。
 忘れなくてよかった。
 遅くなってごめんね。



 たまに、たまにだ。
 こういうことされるとひとは弱い、と思うわけだ。
 打算のない優しさとか、そういうもの。それがいつもの彼の抜け具合と相まってどこかにすとん、と落ちていく。

 うっかりしすぎて、落ちてしまった。

「ありがとう」

 記憶の隅で、おバカな犬が一声鳴いた気がした。

 


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