たるのこ


 

 鳴く蝉よりも鳴かぬ蛍が身を焦がす






 今日はとみに暑い日だと感じた。
 蝉の声は絶え間なく響き、冷房の効いた車内にも古い窓枠から洩れてくる。

「いまのうちに塗り直しとこうっと」

 涼しげなかわいいかご編みバッグの底を探る。泊まりのために用意した荷物が邪魔でお目当てのものが見つからない。
 見つけた。
 日焼け止めを握りしめた時に大きく車体が浮いた。しかたない、古いのだから。
 がらんとした、あたし以外には乗っていない電車の日に焼けて色を変えた元は鮮やかな赤だっただろう座席にすわりなおした。
 肌に液体をぬりこみながら、ふふふとわらう。
 今日は勝負の日だ。うんときれいにしないと。
 あたしは元から美人だけど磨けば磨くほど輝けるって知っている。
 お母さんの高い化粧水もこっそり使わせてもらった。冬虫夏草とかいうエキスがはいっているやつ。
 艶々とした髪はくしを通さなくても細い絹のように真っ直ぐすべすべとしている。あたしの自慢のひとつだ。手入れは欠かしていない。
 桜色の爪先はやすりをかけて形よく整えた。頭の天辺から足の先まで、どこまでも美しい。
 それでもまだ気になって鏡を取り出そうとした時にまた大きく車体が浮いた。そしてそのまま長いトンネルへと入る。ここを抜ければ彼に聞いた「ほたるのさと」に着くことだろう。
 季節外れの蛍が見れるという秘匿の場所へ。
 あたしは毎年、おじいちゃんの家で蛍を見る。梅雨に入る前、五月の終わりから六月の頭くらい。
 でも今年はだめだった。家で唯一運転できるお父さんが事故でその時期に入院したからだ。
 その時はあきらめた。しかたない。ただ、夏休みにいつもはいかない図書館で見た記事を読んで最熱したのだ。
 蛍は世界に約二千種もいる。日本には約五十種弱、そのうち発光するのはゲンジボタル、ヘイケボタルやヒメホタルなどの八種に限られるそうだ。
 おじいちゃんの家にいるのはゲンジボタルだと思う。五月下旬から六月下旬に現れるらしい。
 だからあたしが狙うのはヘイケボタルだ。七月から八月にかけてみることができる。惜しむらくはゲンジボタルの発光より弱いことか。そのぶん明滅する間隔も長いらしいけれど。
 そのことを教えてくれたのは
氷雨(ひさめ)くんだ。
 目元が涼しげな彼は転校生。教卓に立った彼と目が合ったあたしは一瞬で恋に落ちた。いままで見てきた人間の中でも彼はずば抜けて美しい。
 きっとあたしの横に立てばさらに美しく映えるだろう。その光景を想像するだけでうっとりする。

「氷雨くんの実家がほたるのさとだなんてついてる!」

 いくつもの電車を乗り継いだ山の向こう。八月に見れる蛍といえばヘイケボタルだろう。
 美しい蛍に美しい彼と見るの。
 その時のあたしの姿はきっと途方もなく美しいに違いない。
 気づけば電車はカタカタと音をたてて無人駅へと停車していた。
 いけないと目深に帽子を被って外に出ると案の定からりとした暑さがあたしを焼いてくる。
 一両しかない電車のドアはこのご時世に手動だ。わざわざ車掌が開け閉めをしてくれる。
 しばらく開けたままだったドアを閉めて電車はあたしを置いて静かにそのまま発車していった。
 せわしなく鳴く蝉は街のと種類が違うのだろうか。どこか間延びして聞こえる。
 周囲を見渡せばがらんとした小道の脇に生えている緑の木々の枝に真白い紙の提灯がくくりつけられていた。それは点々と道の先にある木にも。

「聞いてたとおりだ」

 まだ見えないがその先には長い長い石の階段があるのだろう。
 そこには大きくて古い神社があるそうだ。氷雨くんのお家。彼は先に着いてるので、はやく会いにいかなくては。
 背中に羽が生えたような気持ちだ。足が軽い。
 一段一段、白いサマーワンピースの裾を揺らめかせて登っていると見慣れた背中が見えた。
 そして黒くて大きな日傘が。
 柄を握るのは同じく黒い生地の浴衣を着た誰か。

「氷雨くん」

 話しかければ彼が驚いてこちらを振り返る。そして氷雨くんの正面にいた人物の目があたしと合った。服装も相まって黒猫を見ているような気分になる。
 背の高い氷雨くんと比べてずいぶんと小さい。あたしと同い年くらいかな。長い黒髪は耳の下でひとつにくくられて風になびいている。

「こんにちは、昨日振りだね氷雨くん」

 思わずじろじろと観察してしまったけれど正直「勝った!」と内心ほくそ笑んだ。あたしのほうが、美しい。
 それがわかったのか、彼女は小さくお辞儀をしながら言った。

「ようこそ、美しいひと」






 彼女は氷雨くんの従姉妹でひとつ上の幼なじみなのだそうだ。そうすると高校生か。外見はあたしより幼く見えた。
 今日は年に一回の村のお祭りだそう。木陰になった涼しい境内の中はお祭りを準備する人間で賑わっている。腰の曲がった老人若いひとまで、小学生以下の子供もちらほらと見かけられた。
 手伝ったほうがいいのだろうか。忙しそうな彼らはあたしのことには気づかない。
 いつもはそう多くないのよ、と彼女は笑う。村のひとは外に出ていってしまうからと。こちらが口を黙っていても聞いていないのに話しかけてくる。
 今年度から近くの中学校が廃校になってしまったので、氷雨くんはあたしの校区内の親戚の家に居候をしているそうだ。
 それまでは彼女と同じ家に住んでいたらしい。心の奥が少しだけ炎に炙られたように痛む。
 氷雨くんは家の手伝いで忙しくてあたしに構っていられない。不服だけれどここで引き留めるより待つほうを選んだ。わがまま女は嫌われるもの。
 あんまりにも暇そうに見えたのか、たびたび彼女が勝手に相手をしてくれる。頼んでいないのに。

「のど、渇いてないかしら。ちょっと待っていてね」

 そういえば、そうかもしれない。よくいままでそう思わなかったものだ。うなずくと彼女は建物の中へと消えていった。
 残されたあたしはひとり一番上の石段にすわって景色を眺める。
 自然は豊かだが交通の便は悪いのだろう。ぽつりぽつりとある家はあたしの住む住宅地とは密度が比べものにならない。

「ねえねえ」

 甘ったるい、耳にかかる幼い声に振り返れば日本人形のような風体の少女があたしの背後に立っていた。気づかなかった。いつの間にいたのだろう。

「あなた、外のひとでしょう」

 肩で切りそろえられた髪はふわふわで柔らかそうだ。

「そうだけど、それのなにが悪いの」

 村の子だろうか。まわりを見渡したが親らしき人物も友達らしい影も見当たらなかった。

「わたしもだよ。知らないうちに勝手にここまで連れられて来たの」

 赤いおおぶりな金魚柄の浴衣の袖をひらひらとさせながら断りもなく隣に座る。その袖口からのぞく手首は病的なまでに白く細かった。それなのに唇だけが紅を引いたかのように妙に艶々としていて不自然に見える。

「知らないうちに?」

「そうだよ。あなたもそうだと思ったのに」

 なにも知らないで来たんだね。かわいそうに。
 少女はあたしを労るようなそれでいてどこか冷めた目を向けて、もったいぶった口ぶりで言った。

「今日のお祭りがなんのためにあるのかも知らないのでしょう。いいよ、私と同じだものね。あなたには特別に教えてあげる」

 少女の白い手があたしのほほに触れる。その指先は驚くほどに冷たかった。小さな悲鳴をあげそうになったが、声にはならない。
 ぎらつく太陽に分厚い雲がかかり、急に空が薄暗くなる。
 あれだけ騒がしかったはずの蝉の声が止んでいた。

「あなたはね“ほたるのこ”になるために連れられて来たんだよ」







 気づけば景色は夕闇に包まれていた。どれほど時間がたったのだろう。あたしは蔓や石に足をとられながらもひたすら森の奥へと進んでいた。
 本数の少ない電車は明日の早朝にしか来ない。それまで身を隠していないとあたりは“ほたるのこ”にされてしまう。

「昔の話よ。この村にはとても美しい娘がいたの。美しかったけれど村一番貧乏の家で、兄弟もたくさん。でも病弱だから畑仕事ひとつも満足にできなくてね。それを悩んで悩んで橋から自ら落ちて死んでしまったの。家族は悲しんで川から娘を引き上げようとしたけれどなぜか体は見つからなかったわ。茹だるほどに暑い日だった」

 赤い唇は見てきたかのように告げる。

「その翌年の夏は蛍がたくさんうまれてね、それはそれは美しかったそうよ。でもそれはその年だけで、次の年はいつもの蛍の数だった。その次の年も、変わらなかった」

 その時は、そういうこともあるものだと流された。娘のことも忘れ去られていった。

「それから十年もした頃かしら。川で水遊びをしていた女の子が溺れたの。村でも評判のかわいい子だったわ。でもどこにいってしまったのか体は浮かんでこないまま見つからなかったの。その翌年の蛍はいつかのようにたくさん、たくさんうまれてね、それはそれは美しかった」

 その光景が好き者のお金持ちまで届き、毎日村に見に来てはお金を落としていった。村はそれでとても潤った。

「来年も頼むと言われたのね。でも村人は困ったわ。毎年こうなるわけじゃない。どうして蛍が増えるのかはわからなかった。次の年はいつもの蛍の数だったわ。でもその年は隣の村から蛍を見に来ていた少女が足を滑らせて夜の川へと落ちてしまった。朝になって皆で探したけど見つからない。浅瀬だから溺れたわけでもないだろうって。変な話よね」

 次の年は、それはそれはたくさんの蛍がうまれたわ。たくさん、たくさんね。


 ここまで聞いて、あたしはなんとなくその先がわかってしまった。耳をふさぎたいのに、ふさげない。聞きたくないのに聞いてしまいたい。呼吸する音さえ消えてしまったようだ。

「勘のいい村人がね、気づいちゃったの。蛍が増える前の年には誰かが川で消えているってね。はじめは半信半疑だったわ。そうよね、それじゃあまるで蛍が人を食べたみたいじゃない。でもね、試してみようってなったの。その年は日照りがひどくて、作物は枯れてしまった。お金持ちからの施しを期待してしまったの。心に余裕がなかったのね」

 最初は、それでも生きた者を贄には出来ずに土葬の墓を暴いてまだ肉が残っているのを選んでは川へと放り込んだ。蛍は増えた。
 村人は安堵する。そして、理解した。暗黙の了解で内密に続く儀式。

 何度も繰り返していれば、放り込む死体も減っていく。
 仕方がない。仕方がない。
 その年は、病気で死にかけていた娘を。
 その次の年は、足の怪我で弱った娘を。
 蛍は増える、増える。
 死人の時より、格段に。

 ある年、村で一番美しい娘を生きたまま川へと落とした。
 次の年の蛍は、いままで見た中でもそれはそれは美しかった。

「人ってね、同じことを繰り返しているとどんな残酷なことでも作業と割りきってしまうのよ。うふふ。狂ってしまったのでしょうね。とうとう村からは若い娘がひとりもいなくなった。仕方がないから、遠くまで出ては、美しい娘をさらってきては繰り返した」

 いまのあたしは、他人から見てどう映るのだろう。きっと全身からは血の気が引いて、真っ白く見えているに違いない。
 そんなあたしを見て、少女はにやりと唇を歪めて笑う。

「あなた、このままここにいたらどうなるのかしらね」

「ふ、ふざけないで! あたしはまだ死にたくない!」

 まだまだやりたいことはたくさんある。遊びに行きたい所も友達とした約束も、恋愛だって。

「氷雨くん……」

 彼はこの村のひとで、きっとあたしは誘われて来たんだろう。
 ひどい、ひどいよ。こんなことってない。でも好きだ。でも死にたくない。好きなの。一緒にいたいの。つれなくてもいいから黙って横にいてあたしの話す言葉を聞いていてよ。

「あなたが“ほたるのこ”にならなくていい方法が、ひとつだけあるわ」

 泣きそうなあたしの前で、少女はゆっくりと言う。すがるように見れば、にたりと目が合った。蛇のようだとひそかに思う。
 冷たい、冷たい指先があたしのほほへとまた伸びて。その赤い唇が耳元で小さく囁いた。
 甘い、甘い言葉を。

「この村には若い娘があとひとり、いるでしょう」

 その子に、かわりになってもらえばいいの。







 今日は、新月だ。
 街灯もビルの消えない広告灯もない夜の空は数えきれないほどの星が瞬いている。空気が澄んでいるからだろう。こんなことがなければ、きっと喚声をあげて楽しむのに。
 あたしは息を殺して、木々の裏に隠れる。ひとり、またひとり背後を過ぎていく。きっとあたしを探しているんだ。
 気配が遠くなったのを確認して、あたしはさらに奥へと進む。

『あの子にかわってもらえばいいんだわ』

 目の前が一瞬だけ眩み、気がつけば、蝉の声ではなく草影から鳴く虫の声へと変化していた。
 驚いて立ち上がればまわりは夕闇に囲まれている。まだ、昼過ぎだったのに。振り返れば横に座っていた少女の姿は消えていた。

「なん、なの……」

 遠くに見える白い提灯に光が灯されていく。複数のひとの声が聞こえる。言い様のない雰囲気に負けて、石段を駆けおりた。
 見つかったら、殺されるかもしれない。
 そうだ、そうなる前に逃げてしまえばいいんだ。今日は帰るのは無理でも明日の朝には電車が来るんだ。それまで隠れていればいい。
 夜の森は真っ暗で、上手くすればきっと逃げきれるはずだ。
 道なんてない、それこそ獣が通るような地面を買ったばかりのサンダルで踏んでいく。白いワンピースは光の下ではどれだけ汚れて見えるだろう。
 どうしてあたしがこんなことをしなくてはいけないの。情けなくて泣いてしまいそうだ。いまの姿を彼に見られでもしたら。

「氷雨くん」

 ああ駄目だ。
 名前を出せば、ぼろぼろと感情が溢れ出てくる。
 助けて。助けてよ。

「氷雨くん氷雨くん」

 立ち止まり、うずくまる。
 だってあたしのほうが美人でしょう。かわいいでしょう。あの子よりも。

「氷雨くん氷雨くん氷雨くん氷雨くん氷雨くん」

 ずっと近くにいたのでしょう。ずっと側にいたのでしょう。ずるい、ずるい。ずるいよ。あたしだって氷雨くんと仲良くしたかった。もっと話をしたかった。

「氷雨くん氷雨くん氷雨くん氷雨くん氷雨くん氷雨くん氷雨くん氷雨くん氷雨くん氷雨くん氷雨くん氷雨くん氷雨くん氷雨くん氷雨くん氷雨くん」

 隣にいた、あの子よりもずっと。ずっとあたしのほうがふさわしいでしょう。あんな子はいらないでしょう。

 ねえ、そうでしょう。
 じわりと甘い、甘い言葉があたしの胸の奥まで染みこんでいく。
 一匹の蛍が、ひらりと視界の端に見えた。誘うように、舞うように。

 こっちだよ、こっちにいるよ。

 さあ、堕ちておいで。

「いま、行くよ」

 土を払って立ち上がる。
 あの子が、死ねばいい。






 キイキイと耳障りな音が耳まで届く。目を向ければ木の板と麻紐で作られた簡素な橋が風で揺れていた。
 おじいちゃんの家の近くの崖の裏にもあんな橋がある。もっと立派なものだったけれど老朽化が進んで危ないからと立ち入り禁止になっていた。
 蛍がよく見えるポイントなのであたしは隠れて渡っていたりしたのだが。
 川の近くにはたくさんの蛍が舞っていた。飛んでいるのがオスで、草に留まっているのがメスだろう。
 蛍は蝉のように成虫になってからは二週間ほどしか生きられない。
 彼らがその間、口にするのは水だけだ。体が重くなればそれだけ長く飛べなくなるから。
 虫が死ぬ時は基本的に足の神経が弱くなって死に至る。餓死などの理由もあるが大体は足から駄目になっていく。
 蝉などがよく地面に生きたままひっくり返って転がっているのはそのためだ。ひとは気づかずに踏んでそのまま殺してしまう。
 羽を持つ虫は羽を動かす筋肉が一番重い。だからそこから駄目になっていく。
 飛べなくなることは彼らにとって死ぬということなのだ。
 そんなことを考えていれば、川の上流から、蛍ではない光が見えた。点滅のしないそれはひとつ、ふたつと数を増やしていく。
 川へと近づけばそれは小さな紙で作られた灯籠だということがわかった。側面には短い文字が書かれているが読みとれる前にゆるりゆるりと水に流れていく。

「見つけた」

 この暗闇に、まるで溶け込むような黒の浴衣。黒い長い髪。猫のようなひと。
 白い灯籠をひとつひとつ川へと流していく。背中を向けた彼女はあたしに気づいていない。
 このまま近づいて押してしまえばいいのか。それともその無防備な首を絞めてしまおうか。確実に殺さなきゃ。そしてあたしが彼の横に立つの。
 足音さえ消して、あたしは笑う。いくつもの点滅しない光が周囲を舞って鼓舞する。

 さあ。

天河(あまがわ)さん」

 一見、冷たいともいえる声はあたしが一番好きだと思った声でもあった。あたしはゆっくりと振り返った。声は通る距離。でも腕を伸ばしても届かない距離。

「氷雨、くん……」

 昼間見た彼は夏休みの図書館で見かけた時と同じように学校の制服だった。
 いまは、闇にのまれてしまうかのような同色の浴衣。彼女と同じように。あたしと対比するように。

「あら、いたのね。いまのいままで気づかなかったわ」

 最後に足元に残ったひとつだけの灯籠を手に持って、彼女が振り返る。その顔には微笑みさえ浮かべて。

「ほんとに、いるんだ」

 氷雨くんが、呆然とした口ぶりで言う。なにを言っているんだろう。こんなに近くにいるのに。

「ええ、ここにね。聞いていたとおりに美しいひとね」

 だから、すこし残念だわ。

 少女はあたしと目を合わせて笑う。子供のようにあどけなく。化粧っ気のない顔で。

「名前、天河さんというのね。私は見えても声は聞こえないから、聞こうにも聞けなかったの」

 なにを、なにを言っているの。こんなに、近くにいるのに。

 いくつもの蛍があたしの周囲をくるくると舞う。点滅は、しない。

千歳(ちとせ)は逆に聞こえるけど見えないの。あなたがこの里に来るのも半ば賭けだったわ。来てくれて、ありがとう」

 ああ、氷雨くんの下の名前は千歳だったな。

 中学最後の年の転校生は黒板に美しい文字を書いた。ああそうだ。彼は美しかったけれど最初に惹き付けられたのは文字だった。
 記憶がひとつひとつよみがえっていく。


 席が横になってよく話しかけたこと。授業中も話しかけて怒られたこと。それを友人にからかわれたこと。テストの成績が悪かったこと。先生に呼び出されたこと。お母さんに愚痴られたこと。黙って化粧品を使ったのがバレていたこと。
 ひとつひとつは些細なものだ。でも大切なものだった。
 衣替えをしたこと。夏服がかわいくないと思うと氷雨くんに話しかけても無視されたこと。梅雨に入ったこと。毎年の恒例でおじいちゃんの家に行ったこと。

 ああそうか。あたしは今年もおじいちゃんの家に行ったんだ。泊まりで、車で、連休に家族揃って。
 風が強い日だった。あと少しで家に着くという時。崖の裏にある木造の橋が壊れた。縄がちぎれて、音をたてて。なんとなく窓の外を眺めていたあたしが驚いて大きな声をあげて、お母さんが飲み物をこぼして、運転していたお父さんのハンドルがぶれて。車は白いガードレールを突き抜いて。

 ああ、そうか。なんで気づかなかったのだろう。あたし。

「あたし、死んでたんだね」





 *


 美しいものは好き。
 綺麗なものも好き。
 でもそれは、完成してしまっては意味がないの。

 未完の美。

 私が愛するのは不足があるからこそに揺れるひとときの時間。
 だから私はいまのあなたを見て愛しいと思うの。

「ねえ、そうは思わない?」

 最後のひとつに名前を書いて、そっと川へと浮かべる。灯籠の中は空だ。本来入れるべき蝋燭を入れずとも、消えぬ光が灯るからだ。
 水の流れに乗り、灯籠は蛍を引き連れて遠のいていく。

「でも、終わらないものに意味がないものね」

 隣の従兄弟にそう言うが、彼は視界から消えるまで黙って灯籠を見つめていた。
 彼は、従兄弟は不器用な少年だった。その表情は滅多なことでは動かないので冷たい人間だと勘違いされがちだが、単に小心者ゆえに自分から他人に話しかけることができないだけだった。
 そんな彼に、転校した先でうるさいほどに構う少女。驚いて、返事を返さなくても。知らぬうちに冷たくしても翌朝にはまた同じように話しかけてくる明るい少女。
 内心、どれだけそれに救われただろう。ありがたく思っていたことだろう。しかし現実とは不思議と残酷で。

「お礼が言えて、よかったわね」

 最後の彼女は、笑っていた。すべてを受け入れて、彼にここまで連れてきてくれてありがとうとお礼を言って。憑き物が落ちた顔で。
 憑き物といえば。
 川の表面、赤い金魚柄の浴衣が視線の先で風もないのに翻る。白い顔に、血のように赤い唇が歪む。

「あとすこしだったのに」

 見えない彼も、その声のするほうに顔を向けた。見えなくても、禍々しい気配はするのだろう。

「また食べ損ねたわ」

 憎々しげに、にらみつけられる。しかしそれ以上になにかすることはない。逆にいえば、できない。手を出せば、存在を維持することができなくなる。


 昔々、村人の中でも娘ばかりが川で消えた。死体も見つからない。困った村人はたまたまその村へと通りかかった山伏に相談すると山伏はその夜、川に術を放った。すると川底からそれはそれは大きな白い蛇が這い出てきた。白い大蛇は強かったが、山伏はその身に呪いをかけることによって封じることができた。山伏の血が絶えぬ限り大蛇は自由にはならない。

「いつか絶対に食べてやるからね」

 飽きたのか、ひとしきりにらみ据えた後、ひとの形を崩した大蛇は川の底へと沈んでいく。その周囲を蛍がひらりふわりと飛んでいく。その中には点滅しない光も混じっている。
 それでも、その光景はきっと。

「美しいわね」


 


小説家になろうver

 

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