い知るということ


 

 ああ、面倒くさいな。


 式終了後、一度教室に戻った後は人にもみくちゃにされて身の危険を感じたので避難することにした。

「なんでこんなとこにいるんだ?」

「カグラ」

 諸悪の根元がいまここに。
 武道場へ一時的に置かれたもろもろの荷物を片付けにきたのか。
 風呂敷を広げながらカグラは顔を上げた。
 にやりと、笑う。

「父さん喜んでたよ、あんたの書道パフォーマンス」

 じろりと、身体を起こしてカグラを見やる。

「自分がやるはずだったの押しつけたクセに」

「わたしがするより、どうせなら生徒にさせたらって言っただけだろ?」

 それを押しつけたと言わないでなんと言おうか。

 卒業式の記念品贈呈。
 案は出尽くし、金銭的にも物的にも後腐れがないものが好ましい。
 これは最初、若手書道家であるカグラを呼んでの書道パフォーマンスをすることで決まっていたらしい。
 二月の半ば、カグラの父親である教頭に呼び出された時はそれで予定されていた。
 教頭は父の逆らえない人間の一人である。
 なんでも大学時代に多大な借りを作ってしまったんだとかなんとか。
 その関係を子にも強いるってどうなんだ。
 大人の事情というのは実に恐ろしい。
 とりあえず僕はカグラの補佐にまわればよかった。
 はずだった。
 その時は。

「免許皆伝の腕は持ってるだろう。あんたはもっぱら絵ばっか描いてお師に怒られてたけどさ」

「極める気はなかったから」

 他にも、同時進行で習っていたことが多すぎたし。
 一度見たり、触ってみれば真似ることができる僕は面白がった母の方針でありとあらゆる習い事をさせられた。
 ピアノや英会話からはじまり、花道や香道のような行儀作法の延長から空手や弓道といった武術全般。
 数だけなら、両手両足を足しても足りない。
 やったことのない方が少ないかもしれない。
 結局、ある程度までおさめると母も飽きたのか強要しなくなった。
 そのおかげで変な知り合いは増えたから、感謝はしておこうと思う。
 カグラは、書道に出逢ってから僕と競争するように習わされていた他の習い事を止めて没頭した。
 自分のやりたいことを見つけた人間は強い。
 それさえあれば、どんなことがあっても生きていくことができるから。

「まぁ、そこそこ上手く書けたからよしとするか」

 帰国を前倒しにして僕を迎えにきたカグラは、企画の変更を言い渡した。
 なんでも、自分並みに書ける人間がいるのだから学校からしても生徒にさせるほうが名分が立つだろうと。

「なんとでも言える」

 どっちが大義名分になったんだか。
 伊勢海老みたいな色の髪がさらりと揺れる。
 実際の理由はこっちだろう。
 染め直すの面倒になったんだ。
 教頭が白髪染めを持って追いかけている所を何度も見た。
 文句言われるの嫌なら最初から染めなければいいのに、髪。
 中国に留学する前は金髪だったけど。
 ぼんやりと見ていると、武道場の扉がまた開いた。

「こんなとこにいた! あれ、天鞠ちゃんは一緒じゃないの?」

 息を切らしながらあらわれたのは、学ランを着た兄。
 丈があっていない気がする。身長が足りないという意味で。
 学校はどうしたんだ。
 半日授業だったっけ。
 あと、いまここに来るのはやめといたほうがいいと思うんだけど。
 制止しようと口を開いたが、まわりのほうが先に動いた。

「いま、天鞠ちゃんのお母さんが母さんたちにつかまってて…」

「会いたかった…!」

 あーあ。
 終わった。
 僕はもう知らない。
 見えない気にしない。
 会わないように多少は根回しをしてたけど、本人がわざわざ来たなら仕方ない。
 いまのいままで僕しか見えていなかったのだろう。
 兄の身体がぴたりと固まった。
 ぎこちなく、首が声をした方向に向く。
 沈黙は三秒。

「………ぎゃぁあああ変態がいたぁあああ!!!」

「きーよーむー! 会いたかったぁあああ!!!」

 兄はカグラが苦手である。
 人好きされる性格だし、本人も人懐っこい性質だがカグラは別。
 まぁ、たしかにあんなことされていたら。

「おみやげにチャイナドレス買ってきたんだ! もちろんミニだ!」

「誰が着るかー!」

 鼻息荒く近づくカグラに壁づたいに兄が逃げる。
 いまでも十分、女顔で苦労している兄だが小さい頃はそれこそ女の子そのものだった。
 容姿も扱いも。
 髪は長く伸ばされてリボンを結ばされ、ヒラヒラのゴスロリワンピースとか着せられて。
 祖母も悪ノリして振袖を着せていたり。
 本人は大層嫌だったらしく、その辺のアルバムはすべて他人の目に見えないように厳重に自分の部屋に封印している。
 ネガを母が隠し持っているから本当は無意味なんだけど。
 さすがに小学校に上がるくらいになると、親たちも可哀想になったのか普通の格好をさせてもらえるようになったのだが。

「小さい顔に変声期を過ぎても高い声、細い腰にどれだけ鍛えても筋肉のつかない華奢な手足、どれをとってもなんて可憐さ!」

「気にしていることをズバズバと!」

 青い顔をして後ずさる兄と、興奮して息の上がったカグラ。
 昔から、こんな感じだった。
 理想なんだそうだ、カグラにとって兄は。
 自分が持たない良さを持っている存在だと。
 初対面からして正反対だったらしい。
 動きやすいようにといつもズボンとTシャツ姿で少年に間違われていたカグラは、ある日妖精に会ったんだそうだ。
 ふわふわスカートにフリフリレースの靴下に大きな花束を持った少女に。
 まぁ、兄なんだけど。
 まさに自分の追い求める理想の少女だったらしい。
 自分には似合わない格好を着こなす、こうなりたかったという憧れの塊。
 男だとわかったあとも執拗に追いかけ回し、その後も女装させることに全力をかけた。
 兄が男子高を選んだのも、一番はカグラが入学できないからである。
 それが逆に裏目に出た気がしないでもない。

「一応スリットがっつり入ったロングも購入済みだから!」

「そっかそれなら安心とか言うかこっち来るなぁあああ!」

 兄の声が反響しながら武道場の外に出ていく。
 カグラもそのあとに続いた。
 もう少し、穏便に頼めばいいのに。
 ようやく訪れた静寂。
 さて、どうしよう。
 いい加減、教室も人の波が引いただろうか。
 いま行けば彼女はまだ残っているだろうか。
 卒業式のあの時、ようやく見れた彼女。
 どうして、あんな場所にいたんだろう。
 そういえば兄がなにか言いかけていたけど。

「こんなところにいたわ!」

 大きな音を立ててまた扉が開いた。
 ここ、建物自体がだいぶ古いから粗雑にするとすぐ壊れるんだけど。
 声からして相手がわかったので振り向きたくない。
 背を向けたまま僕は言った。

「リトルグレイ」

「誰が捕獲された宇宙人よ!」

 また乱暴に閉めた音がした。
 レールがずれたらどうしてくれるんだ。
 しぶしぶ振り返ると、両手を腰に当てて土足で入り込んだ小柄な人間がそこにいた。
 小さな背丈に猫を彷彿させるような大きな目。
 まさにリトルグレイの名にふさわしい。やることもぶっ飛んでるし。
 コロボックルだと語感的にも可愛らし過ぎて中身にそぐわないから。
 癖の強い長い髪が動くたびに左右に揺れる。

「なに、
寿々宮(すずみや)

 なんのポリシーか学校にいる時は固い三つ編みにしているのに、解いている。
 この姿のときは通常時よりも警戒しなければならない。

「イイコト教えにきてあげたのよ!」

「いいことだったためしがないから」

 僕にとって。
 寿々宮は口八丁に器用に周囲を丸め込むのが得意である。
 実に起こした騒動は数知れず。
 闇に葬られた事件も数知れず。
 とりあえず、姿を見たら玖珂を呼べと言われている。
 巷で爆弾処理班(単独)という二つ名のついた玖珂を。
 いつもならセットで横にいるんだけど。
 今日はいないみたいだ。
 あと、どうも見ている方向にあるのって僕ではなく壁に立て掛けられたマットなんだけど。

「僕こっち」

「わかってるわ! たまたまよ!」

 立ち上がって手を振り言うと、てんで違う場所を見ていた寿々宮がこっちをにらんできた。
 それでも焦点があっていない。
 相変わらずのド近眼だな。
 なんで眼鏡を外したんだ。

「もう! のんびりしてたら虎に油揚げをさらわれるわよ!」

 なんか妙な改変されてるんだけど。

「虎は油揚げ食べるの」

「比喩よ比喩!」

 率直に聞かないとダメねコイツとぶつくさ呟きながら、人差し指を僕に向けてきた。

「いまから聞くことにイエスかハイで答えなさい!」

「選択肢の意味あるの」

「ないわよ!」

 最低限の願いくらい聞き届けないと意味はない。
 それより答えになってないなら聞く意味はない。
 しかし寿々宮に言っても止められる気がしない。

「そのいち。あんた岩戸天鞠が好きなのよね?」

「うん」

 どうして彼女の名前を知っているのかは聞かない。
 きっとろくでもないことをしている気がするから。

「そのに。それってどういう『好き』なの?」

「イエスかハイで答えられない」

「臨機応変に言葉は変わるのよ。法則はわたしが定めるわ!」

「どこの神様」

 インドのカーリーかなにかか。

「とっとと答えなさいな!」

 もっと縮んで見えなくなればいいのに。
 よくこんなのを抑えていられるな、玖珂。
 話していて疲れる。

「農具ではない」

「それは鋤! わたしは言葉遊びに来たんじゃないわよ!」

「選択肢潰しただけ」

 鋤とは、農業などで地面を掘ったり、土の中の雑草の根を切るのに使用される手作業用の農具である。
 長いシャベルのようなものだ。

「あーもう! ペースが崩れるわね!」

 寿々宮が地団駄を踏む。幼児じゃないんだから。
 顔立ちもだけど動作が子供っぽい。
 だからいまだに小学生に間違われるんだ。

「親兄弟に向ける『好き』友達に向ける『好き』趣味や仕事に向ける『好き』は似ていてもニュアンスが違うのはわかるわね?」

「うん」

 親や兄に向けるのは感謝で友人には信頼かな。
 絵に向けるのは執着か。

「岩戸天鞠に向けるのは、なに?」

 なにって。

「愛かな」

 大切にしたいという気持ち。近くにいたいと思う感情。
 一番近いのは、これじゃないのか。
 なんかこの問答、玖珂ともした気がする。
 ずっと近くにいると思考が似てくるのか。
 この間の問答。
 なぜか、その頃から妙な感覚が時折浮かび上がっては消えていく。
 強いような。弱いような。
 欲しいような。欲しくないような。
 くらくらグラグラ。
 なんの症状か知識の中から検索しても見つからない。
 よくわからないから放置してるんだけど。

 寿々宮がいきなり床に崩れ落ちた。
 なにもないところで転ぶって器用な。
 しかし寿々宮は即座に立ち上がった。

「定義が広すぎるわ! わたしに言わせてみればそれは『恋愛』でも『愛』じゃなくて『恋』よ!」

「こい」

「魚じゃないわよ!」

 恋。
 単語の意味は。
 検索、詳解、結果。
 それは。

「理論で固めたゴタク聞きに来たんじゃないのよ!」

「う」

 寿々宮が僕のネクタイをおもいっきり下に引っ張った。
 絞まる。締まるではなく、絞まる。
 文句を言おうと下に目を向けると、力強い目に開きかけた口が閉じた。

「言葉の意味だけ目一杯に詰めこんだ優秀かつ無能な脳ミソに告げるわ! 人間感情でしかわからないことがあるの!」

 寿々宮の顔が眼下に迫る。

「理屈並べて理想掲げて満足かしら? 見ているだけでいいとか側にいるだけでいいとか言わないわよね? 思っても口に出してないとか言わないわよね? 自己完結の世界は楽しいかしら?」

 言い当てられる言葉に息がつまる。
 実際に首が絞まっているんだけど。

「これがあんたの一方的な粘着だったらわたしだって知らんぷりしとくけど、奇跡的にいま『恋愛』として成り立つかもしれないからここまでしてやるわ! 感謝なさい!」

 さすがに、もうきつい。
 息ができない。物理的に。

「死ぬ」

「死にさらせ。じゃなくて死に物狂いで特攻してきなさいよ! 口に出さないと伝わらないことがあるのよ!」

 ネクタイから手を離し、その直後両手で僕を突き飛ばした。
 予想できずに背後に転がる。
 しかしどうやらその反動で寿々宮もたたらを踏んだ。
 肺に新しい空気が入り込む。
 あと、寿々宮のつづねた言葉が脳裏に染み込む。
 本当に、相変わらず人の痛いところをつくのが得意なようだ。
 目が合うと、にまりと笑んだ。

雅虎(まさとら)がね、いま教室で面白いことをしようとしているの。相手は岩戸天鞠よ」

「玖珂」

 くらくらグラグラ。
 これはなんだろう。

「誰かさんがここ数ヶ月で猛攻したからね。雅虎も気が気でないんでしょうよ。わたしとしてはどっちでもいいのよ? 楽しければね」

 くるくると寿々宮がその場を回る。
 ふわりとスカートがなびく。

「現状保持なんてできると思ってるの? 本当はそんなもので満足できるの? 欲しいなら奪ってきなさいよ。恋は戦争なの」

 それは、まるでゲームのようだ。
 白と黒、裏返しては自分のものにしていくような。

「奪ったら、どうなるの」

「さぁね。とりあえず当たって砕けてきたらいいんじゃないの? いまなら幼馴染みのよしみで埋めてあげるわよ」

「拾うじゃなくて埋めるの」

 それを言うなら骨を拾うだろう。
 回転をやめた寿々宮がゆっくりと振り返る。

「燃え尽きないと骨にならないでしょ?」



 人がまばらになった廊下を通って、教室のドアを開ける。
 紙の花で飾られた黒板には多色のチョークで祝いの言葉が書き連ねられていた。
 色つきチョーク、遠くからだと見えにくくて個人的にあまり好きではない。
 絵を書くときも白のチョークしか使わなかった。
 消すときにも色つきだと手間になるから。
 風でクリーム色のカーテンが大きく揺れる。
 そんな、教室の中。
 黒板の前に、二人の人影。
 それは。

「なんで正座してるの」

「明!」

 慌てふためく立ったままの玖珂と、なぜかその前には正座している彼女。
 どういうことなの。

「立って! 岩戸さん立って! あと、どうしているんだ明!」

「えー」

「あの、本当に申し訳なくって…」

「いいから! そんなことしなくていいから!」

「なにこれ」

 面白いことって、これだろうか。
 卒業式の日に教室でやることって、土下座だっけ。
 背後を見るが、着いてきていたはずの寿々宮がいない。
 誰か事情説明してくれないだろうか。簡潔に。

「本当に、本当におこがましいんですけど、あの、でも、私、ええとごめんなさい!」

「わかったから、もういいから、俺は大丈夫だから、立とう岩戸さん!」

 顔を伏せる彼女は見るからにうろたえている。
 その手を引き剥がすようにして玖珂が立ち上がらせようとした。

「泣いたの」

「え」

「泣かせたの」

 泣かせたの、彼女を。
 顔を隠した彼女のまなじりに水の粒。
 心臓が大きく高鳴る。
 なにをしたの。
 なにかしたの。
 もしそうなら。
 彼女の手首から玖珂の手を振り払う。

「高千穂くん…あの、ええと、その」

 下を向くその顔を、両手で挟んで持ち上げる。
 なにか、言いたいけれど。
 言葉で、伝えられたなら。

 ふと、母の言葉がよみがえる。

『あんたの口はなんのためにあるの?』

 それは、たぶん。

 この口を閉ざすために。



「どういう状況なのかしら、これ」

 牛乳の瓶底のような分厚さの眼鏡と、縄のような三つ編みをした寿々宮が、やはりドアを破壊するかのように開けて入ってきた。

「雅虎? まーさーとーらー? 生きてる? 燃え尽きた?」

 手をふりふり、寿々宮は玖珂の眼前で振ってみるが反応がない。
 なんか、さっきから固まっている。
 固まっているといえば。

「なんで土下座してるの、その子」

「なんでだろう」

 顔を真っ赤にしたあと、崩れ落ちるようにして膝に顔を隠してしまった。
 寿々宮が悔しそうに顔をしかめる。

「なんか決定的瞬間を見逃した気がするわ」

「わざわざ髪を結んできたからじゃないの」

「あの姿のままで眼鏡かけたくないのよ!」

 どんな理由。
 寿々宮の行動理念がわからない。別にわからなくていいけど。

「まぁ、動いただけよしとしましょ。あんた自分からは絶対に動かないもの。明日は雪か氷柱か隕石ね」

 失礼な。
 じろりと見ると、肩をすくめて玖珂の膝裏を蹴り上げた。
 玖珂が床に崩れ落ちる。
 いつもならここで激しい言い合いになるが、玖珂は動かない。

「さっさと帰るわよ。馬に蹴られたかしらないけど、死んでないなら歩けるでしょ」

「メイ、おまえな…」

 ずりずりと足取りの遅い玖珂を引っ張って、やはり来たときと同じように音をたててドアを閉めた。

 静寂。
 風に吹かれてカーテンが大きく膨らんではしぼむを繰り返す。
 遠くから、誰ともしれない話し声のざわめき。
 電気をつけなくとも、十分に明るい教室。
 目の前には、どう見ても土下座している彼女。
 なんか、おかしい。

「いいんちょ、どうしたの」

 どこか体調が悪いのだろうか。
 保健室開いていたかな。
 ずっと床に正座は冷えるから、せめて立ったほうがいいと思うんだけど。

「…ざ」

 なんか、言ったかな。
 ゆっくりと彼女が動き出す。
 足がしびれてきたのだろうか。

「なに、いいんちょ」

「…いざ」

 くぐもって聞き取れない。
 なんだろう。
 やっぱり保健室に連れていったほうがいいかな。

「いいんち」

「ちょっとそこに正座!」

 がばりと顔を上げた彼女は、同時に床を手で数度叩いた。
 その表情は明らかに怒っている。
 はじめて見たかも、この感情。

「え」

「え、じゃないよ。座るの。座って。いまから私、説教します」

 言われるがまま、目の前に座る。
 久しぶりに近くで見た彼女は、珍しく目を合わせても自分からそらさなかった。

「なんですか、あれ」

「なんですかってなにが」

「さっきのことです」

「さっきの」

 どれだろう。

「く、くく口にしたこと」

「キスのこと」

 言葉にするより、なにより。
 行動に起こしたほうがわかりやすいかと思って。

 手の上なら尊敬のキス
 額の上なら友情のキス
 頬の上なら満足感のキス
 唇の上なら愛情のキス
 閉じた目の上なら憧憬のキス
 掌の上なら懇願のキス
 腕と首なら欲望のキス
 さてそのほかは、みな狂気の沙汰

 オーストリアの劇作家フランツ・グリルパルツァーの『接吻』の台詞ではこうある。
 口を手で隠した彼女は目を細めた。

「高千穂くんって、誰にでもこういうことするの?」

 まさか。

「しないけど」

 彼女だからしたんだけど。

『口に出さないと伝わらないことがあるのよ!』

 なんか、寿々宮が言ってた言葉がぐるぐる回る。

「私が叫んだり、嫌がったりすると思わなかったの?」

 叫んだり、嫌がったり。
 されてたらどうしよう。

「うん」

 あれ、そうか。
 この気持ちは、感情は僕からの一方的なものだ。
 彼女からの気持ちがなかったらこれはただの。

「セクハラ」

 どうしようか。
 謝って許してくれるだろうか。

 彼女は大きく息を吸い、そして吐き出した。

 沈黙が痛い。
 窓の外からはウグイスの声が連続して聞こえてくる。
 彼女の癖のない髪が風に揺れた。

「私、高千穂くんのことが、わからない」

 ゆっくりと、彼女が口を開いた。

「最初、高千穂くんって遠い存在だと思ってた。」

「いいんちょ、それは」

「話してみたら、そうでもなかった。ちゃんと、血の通った人間だった」

 彼女は、口から手を離すと、僕の膝に手を伸ばしてきた。

「確かに、変だけど。授業中は絵を描いてて休み時間は寝てて、どうしようもない人だと思うけど。話していたら元の話題が飛ぶし、こっちの言いたいことも忘れちゃう。あ、最後のは私の頭が悪いからなんだけど」

 僕の右手と、彼女の指先が触れる。

「それでも、高千穂くん最後まで話を聞いてくれるでしょう。わからないことがあったら教えてくれるでしょう。私のこと、理解しようとしてくれるでしょう。私ね、それがとても嬉しかった」

 手を開くと、触れる面積が増えた。

「私、なにもできないけど。なんの力も才能も持ってないけど。人より努力しないとわからないから、もっと近づく努力をしようと思ってる」

 握っても、いいのだろうか。
 顔を上げると、そらさない瞳があった。
 たぶん、これが、ずっと僕が欲しかったもの。

「高千穂くんの絵が好き。高千穂くんが絵を描いてるのが好き」

 指が絡んで、離れない。
 それは、僕の力が入っているからだけど。
 それを拒まない彼女の手。

「私、高千穂くんが好き」


 これは夢か幻か。
 繋がれた手の温かさが、現実だとわかるけど。
 人の感情は目に見えるものじゃないから。
 どうにかして言葉にして。行動に移して表現しなければ伝わらない。
 それは、絵と同じで。
 描かないと、生まれないのなら。
 欲しいなら、願わないと叶わない。
 言葉にして、それが得られるというのなら。
 何度でも、口に出して伝えよう。

「僕も、好き」

 その一言に。

 彼女は花のように笑った。
 それはあの日、黒板の前で見た微笑みより鮮やかに。

 

 


 

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